好太王碑(広開土王碑)414年

好太王碑

本文は2026年4月の筆者の見聞に基づき書かれたものです。

古代史にはなぜか心惹かれます。

しかし残念なことに6世紀後半、聖徳太子の時代より前の我が国の歴史の記録は神話との境が曖昧で、深い霧のようなモヤがかかっています。

空白の四世紀

上は日本古代史の年表です。一瞥してお分かりのとおり、3世紀までの日本の歴史の記録はすべて中国史書(正史)によるものです。

しかし、3世紀終盤より中国は三国時代に突入、中国全土は阿鼻叫喚の焦土と化して、とても外国のことなど構っていられる状況ではなくなり、日本に関する記録も途絶えてしまいます。

再び中国史書の記録にて日本が確認できるのは、未曾有の混乱が多少なりとも落ち着く南北朝時代前夜(5世紀序盤)まで待たなくてはなりません。

また、本文冒頭にあるとおり、日本の史書(日本書紀古事記)のこの頃の記述はまだ神話と史実の境界が曖昧です。

つまり、4世紀の日本は確たる道標となるべき文字記録がなく「空白の4世紀」と呼ばれる所以です。

朝鮮半島の遺宝

そんな空白の4世紀ですが、それを照らす光が、日本と中国の間にある朝鮮半島に二つ、残されていたのです。

一つは、4世紀半ば(369年)に朝鮮半島より渡来した【七支刀】(石上神宮蔵)。銘文により朝鮮の百済と日本が友好関係にあったことを教えてくれます。

そしてもう一つの光が、この世界遺産、【好太王碑】(広開土王碑とも)です。

好太王碑

好太王(またの名を広開土王)は、朝鮮三国鼎立時代(紀元前1〜紀元7世紀)の北方の雄“高句麗”が最盛期の王様(在位391〜412年)で、数多の合戦で敵を撃破して国を広げ、守った英主でした。

その好太王の業績を称えるためにに次代の長寿王1が建立したのが好太王碑。高さ6.3m2の角柱状の大石碑です。

碑文は四面にびっしりと漢字1802字が刻まれており、その中に、好太王が平壌付近で相まみえた相手が“倭”(日本)であることが明記されていて、すまわち好太王碑は、日本書紀の“神功皇后が三韓征伐を行った”との記述にも垣間見えるとおり、遥かなる“空白の4世紀”に日本が海を越えて朝鮮半島へ進出していた3ことを証明する、貴重な一次資料なのです。

遥かなる遺宝

好太王碑のことを私が知ったのは、もう十年近く前のことです。この目で見てみたい!と逸り立ったものの、所在は中国の北朝鮮国境沿いとあって、情報が余りに乏しい4上に交通も不便極まりなく、歯噛みをするしかありませんでした。

それが昨夏にふらっと久方ぶりに好太王碑の情報をネットを漁ってみると、年末に高速鉄道新線が碑の近くまで開通するとのニュースが!

“これなら行ける”と欣喜雀躍、大陸の厳しい冬(氷点下20℃🧊)が明けるのを待って、4月初旬に勇んで中国東北に旅立ちました。

瀋陽~通化~集安

開業間もない「瀋白高速鉄道」の起点は瀋陽56そこから長白山行きに乗ると1時間足らずで通化市に到着します7(高速鉄道開業前は6時間半!)。 この通化から好太王碑のある集安市までまだ100kmありますが、高速道路が通っているので車で僅か1時間8。チャーター車は安心の現地ホテル紹介で手配しました。料金は600元(13,000円、高速道路代込み)でした9

前夜に通化入りして、翌朝は朝食ももどかしく7時半にチャーター車10に転がり込み、いざ、好太王碑のある集安11へ。 そしてガラ空きの高速道路12を飛ばした車は、本当に1時間で着きました。いよいよです。【好太王碑】の文字が大きく躍る駐車場に車が止まりました。

撮影OK!

入場ゲート13を通ると間もなく好太王碑のガラスの囲いが見えてきます。

好太王碑
オフシーズンなので誰もいません ^^;

息を呑んで正面ヘ。事前に調べた情報では囲いの中は撮影禁止14とのことだったので、せめてガラスの外からでも写真を撮りたいと思い、警備員に尋ねると、

まさかの、囲いの中も好きに撮影してよいとの返事❗️
撮影は出来ないものだと諦めていたので、これは予想外の嬉しいボーナスでした。

好太王碑解読

ドキドキMAXで囲いの中へ入ると
好太王碑が目の前にありました。しばし放心。。
好太王碑
左が第1面、右が第2面
されど“ここからが本番だ”と我に帰って

何が本番なのかというと、好太王碑は1600年もの歳月の大半を野ざらしで過ごし15、近年では数多の拓本採りで傷められ、表面が摩耗して肝心の碑文が消えかかっているのです。この摩耗した碑文から日本人=倭人の記録を読み取らねば、日本古代史を紐解くという、そもそもの目的が果たせません。

予習はしてきたものの、そもそも碑の画像があまり見つからず、見つかった画像も肝心な“倭”がある箇所が切れていたり、“倭”があってもそう見えなかったりで

好太王碑
予習資料。線で囲っている箇所は比較的はっきり読めそう。
好太王碑
ネットの画像。右が「倭人」、左が「任那加羅」・・・。肝心な箇所の漢字がそれに見えない💧

予習資料を取り出して、“読み取れないかも…”と恐れながら“倭”のあるべき碑文の位置に目をやると

見えた、見えました。ネット上の写真では判然としなかった文字のかたちがハッキリと。見紛うことなき“倭”の字です。しかも一つだけではなく、三つも、四つも。

好太王碑
黄色の四角の内、はっきり「倭」と読める!

更には、倭人(日本人)が朝鮮半島に攻め入り新羅の国境を破り城や池を潰したという一番読みたかった文もまるっと読めました。
やっぱり4世紀の日本は、窮余の新羅が高句麗王に助けを求めるまでの勢いで、朝鮮半島の奥深く攻め入っていたのだなぁ(詠嘆)

好太王碑
倭人満其國境潰城池(日本人が満ちて(新羅の)国境や池を潰した)
本願成就、感無量とはこのときの気分のことを言うに違いありません。

それから他の箇所も読んでみようと資料と碑文を代わる代わる見比べて、気がついたらあっという間に1時間が経っていました。その間、ほぼ碑を貸切り状態。オンシーズン(5月から)前に来たのが期せず功を奏したようです。

いつまでもキリがないので、後ろ髪を引かれつつも、すっかり満足して好太王碑に別れを告げ、おまけとして集安の他の遺跡と北朝鮮国境を巡って、満足感いっぱいに再び高速道路で通化に戻ったのでありました。

好太王碑を414年に建てた、好太王の息子・長寿王の陵墓。底面は一辺約32mの正方形で、高さは12.5mとなかなかの規模。保存状態がとても良く立派に屹立しており、“東洋のピラミッド”の異名も頷ける。

太王陵

こちらは好太王の陵墓。残念ながら石積は崩れて持ち去られて見る影もない。
太王陵

太王陵は上まで登れて、恐れ多くも、太王の棺が納められていたと思われる石室の中まで入れる。

丸都山城

丸都山城

山上に石積の砦の跡が残るのみ16。運転手さんが「え、あれも見に行くの?」と言ったのも無理はない。

鴨緑江

鴨緑江
北朝鮮国境となる川は、驚くほど川幅が狭く流れも緩い。簡単に渡ってしまえそう、、、。
看板は「対岸の人と話をしてはいけません」と書いてある(話を交わせるぐらい近い)。
5月からのオンシーズンは博物館からまっすぐ川に向かった船着き場から、遊覧ボートが出るそう。
鴨緑江
北朝鮮の人が歩いているのが見える(写真中央)。本当に近い。
集安鴨緑江国境鉄道大橋

鉄道橋も架かるが、鉄道は無期限運休中。1939年竣工、長さ598m、幅5m、支える橋脚は20本。

集安鴨緑江国境鉄道大橋

鉄道橋を近くで見るには入場券を買うけれど、すぐ脇(市内側の道のどん詰まり)に、橋が川辺りからよく見える私設展望台(中国国旗が高らか掲揚されている、無料)があり、こちらの方がお勧め。

朝鮮人参

朝鮮人参
北朝鮮国境だけあって、名物土産は朝鮮人参。数百円から10万円超までピンキリ。何が違うやら。
集安では朝鮮料理屋が多いらしいが、今回集安で食事はせず、代わりに朝鮮料理は通化の繁華街で食べて、小麦粉の冷麺やキムチに舌鼓を打ちました。

貴族墓地

​墳墓内に四神の描かれた壁画あると聞いて、高松塚好きキトラ好きとしてこちらもとても楽しみにしていたのだけれど、休業で見ること叶わず。。(涙)
定休日なのか臨時休業なのか分からなかったものの、域内に重機があったので整備のための長期休業の可能性大。

市の中心部にある博物館も長期休業中でした。

考えてみると、好太王碑が休業だった可能性だってあった訳です17。桑原、桑原。。。

好太王碑四面

せっかく撮影OKだったし、碑の四面が揃った写真がネット上に見当たらないので、ここに掲載します。

第一面
好太王碑第一面
第一面前半は高句麗王誕生神話。後半から好太王の活躍の記録。
第二面
好太王碑第二面

第二面前半は好太王が征服した国の羅列。半ばからまた好太王の活躍活写となり、日本(倭)が主として登場するのもこの面、

第三面
好太王碑第三面

第三面前半は第二面の続き。後半からは、好太王の陵墓をいかに守っていくかの心得集。

第四面
好太王碑第四面

第四面は、第三面に引き続き、末尾まで好太王の陵墓をいかに守っていくかの心得集。

現地で実物の碑から碑文を読み取ろうとするならば、予習は必須です。摩耗がひどくて、予習なしでは何が書いてあるか、まず分からないです18

あと、写真でお分かりになるかと思いますが、碑の上部は損傷が激しく、また、自分の背丈より高いところにあるので、まったく読めません。碑文を読むのなら、碑の半ばから下部にかけての部分です。

【好太王碑】の所在は、下の地図の⑪です。