客家
客家とは漢民族の中で、独自の伝統と生活様式を頑なに守っている人々で、客家語という古代色の濃い自分達の言葉を持っています。紀元前に栄えた王侯の後胤を自任していて、戦乱を避けて集団で移住を繰り返し、移住先で先住者からよそ者として“客(にして)家(す)”と呼ばれるようになったとされます。こうした経緯から、家々に古代からの族譜があり、祖先信仰が強く、周囲から隔絶して世代を重ねて今日に至っています。移住先を海外に求めた客家も多く、海外の中華街を成す華僑の相応の割合を占めているとか。
福建土楼
その客家の中で福建省山間部に定住した一派が造りあげたのが、彼らの家であり、城であり、町である福建土楼です。その原型は千年前の北宋の時代に現れ、17世紀明代の頃にほぼ完成を見たようで、典型的な土楼は、円形の分厚く高い土壁が二重三重に同心円を描く巨大な建造物(最大の承啓楼2は直径63m)で、一族の何十もの家族がその中で暮らしています。
かつて跋扈した武装盗賊や、移住を快く思わない先住者といった侵略者・敵対者から一族の生命財産を守るべくその造りは堅牢で、土壁は2m近い厚さで中には木の骨格があり、外周に外に向いた窓は高いところに小さく空いているのみ。入口は、鉄版で補強された分厚い板戸 3に塞がれて、巨木の閂で封をされます。
土楼の中には上述のとおり何十もの家族の家があり、井戸があり、生活必需品を売る店があり、中心には祖先を祀る廟がそびえます。
住宅は四階建ての最外周(土楼によっては内周にも)に設けられ、地上階から最上階まで、縦に割られた区分が一つの家(地上階は台所と食堂、2階は倉庫、3階4階が居間寝室)という他に類を見ない建付けです。どの部屋も大きさは同じで、どの家も全フロアを有するので、タワマンのような低層階高層階問題は起きません。どの家も対等となるこの造りは、土楼の閉鎖された共同体を永らえさせるための先人の知恵なのでしょう。
土楼がその存在を知られるようになったのは1970年代、つい最近のことです。米国との国交が1972年に回復する以前の中国が謎のベールに包まれていた時代には、衛星写真から土楼はロケット発射孔(サイロ)だと考えられていた模様で、土楼がどれだけユニークかを表す逸話です。
そんな福建土楼を厦門(アモイ)から連れて行ってもらう機会に恵まれました。舗装の良くない道を車で片道4時間は楽ではなかったですが、行った甲斐は二十分にありました
“東洋建築の真珠” 振成楼
福建土楼は山間部におよそ3,000点在します。その中で私が案内されたのは、竜岩市永定区に所在する振成楼でした。
振成楼は完成が1912年と、福建土楼の中でかなり新しい部類に属します。歴史は浅いですが、その分 完成度は高く、驚くべきことに西洋の意匠が取り込まれており、中国と西洋の建築の完璧な組み合わせの稀有な例として“东方建筑明珠(東洋建築の真珠)“、 “最富丽堂皇的圆楼(最も華麗な円形土楼)”、“土楼王子”と称えられる、傑出した土楼です。また、後述しますが“八卦楼”とも呼ばれています。
振成楼は人里離れた山間に、隠れるように鎮座していました。陰陽を踏まえて正面は南向き。農具等を入れておく納屋が土楼を後ろから半周取り囲む配置は、振成楼特有だそうです。周りに他の建物は小さいのがまばらに幾つかあるだけです。
振成楼を建てたのは福建客家の林氏21代・林鸿超。先代の3兄弟が煙草の製造販売事業を興して大成功したものの、相次いで過労死。末弟の子である林鸿超が遺された巨万の富で、父親と伯父達の大願だった一族の土楼を成就したとのことです。土楼の名前は一族の始祖 富成公、丕振公父子の名前から各々1文字貰って付けられました。
間近で見ると、物凄い迫力 4です。入口は正面のほかは左右に小さい通用門が一つづつあるのみ。3階、4階の窓は採光のためではなく、襲い来る敵を鉄砲で撃つための狭間です。周辺に石が敷き詰められているのは、抜け穴を掘られないため。まさに難攻不落の要塞で、これでは大軍で攻め込んでもとても突入できそうもありません。
しかし、この中に何十もの家族が暮らす一つの町があるとは・・・
入口からまっすぐ進むと中央広場で、一族の祖先を祀る祖廟が高々とそびえています。
祖廟から振り返ると小さく正面入口が見えます。中央広場は外からでは想像つかないほど明るく広々としていて、これほど開放的ならば、ずっと土楼の中で生活していても閉塞感に苛まれることはないでしょう。
振成楼を建てた林鸿超とその先代は学校創設や道路施設など、公共福祉に多大なる貢献をしました。祖廟を飾る黄色い扁額は、その功績に対して1923年に中華民国大総統・黎元洪から下賜されたものです。
二階に上がると、内輪の奥に外輪が見えて、振成楼は同心二重円状なのがよく分かります。
祖廟を支える花崗岩から削り出された4本の支柱の意匠はドーリア式で、その白磁の色合いもあって、祖廟は古代ギリシャの神殿さながら。この祖廟こそが、振成楼紹介の冒頭に記した“西洋の意匠”で、数ある土楼中、振成楼をとりわけ引き立てる個性です。
1区画には6家族分の家があります。外輪各階にすべて同じ広さの六部屋があり、1家族は地上階からその真上に向かって各階に一つづつ、内階段でつながった部屋を持っています。4階建ての長屋に住んでいるイメージでしょうか。地上階は台所と食堂、2階は倉庫、3階4階は居間寝室になっています。
ここで、区画を仕切る壁に注目ください!
振成楼を上から見ると、内輪と外輪の間が八つの区画に仕切られています。その仕切りが上の写真の壁です。区画が八つなのは、森羅万象を説く中国伝統“易経“の基本図“八卦”に倣ったからです。
ご覧ください。左が振成楼の俯瞰イメージ、右が八卦(後天図)です。振成楼が八卦に基づいて仕切られているのがよく分かります。
この八卦風仕切りはただの縁起担ぎではありません。隣に通じる扉を閉めれば、火事の際には煙や炎を、敵や泥棒の侵入時には賊を、その一区画に閉じ込めることができ、土楼全域に累が及ぶのを防ぎます。素晴らしい防災・防衛対策です。
伝統と実利的機能を共に織り込んだこのグランドデザインが、西洋意匠の祖廟とともに、振成楼を特別な土楼にしています。
下の写真は仕切り壁を上から見たところです。がっしりと堅牢で、有事の際にいかにも頼りになりそうです。
振成楼は1985年にロサンゼルスにて開催された世界建築展に、北京の天壇とともに中国の偉大な建築として紹介され、センセーションを巻き起こしています。中国でも人気は高く、江西省贛州市にはは振成楼をそっくり模したホテル(百度百科ページに写真あり、中国語)が人気を呼んでいます。
また1940年には大地震に見舞われましたが、振成楼はビクともせず、わずかなヒビが外壁に入ったのみだったそうです。
伝統、機能、意匠とすべてを兼ね備えた傑出した土楼、振成楼。厦門から日帰りツアーが多数出ています。
土楼観光の拠点は福建省の主要都市・厦門。片道 173kmの行程です。私が訪れたときは難儀しましたが、今では道路はかなり整備されている模様です。
ご興味あれば、最大の福建土楼もご覧ください。華麗な振成楼とは対照的に、なかなかカオスです。